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ナルシシズムを克服して心豊かに

謝罪とは崇高な行為だと「聲の形」が教えてくれる

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A Silent Voice 聲の形

はじめに

「聲の形」鑑賞しました。

日本ではテレビ放送されたそうですね。

 公式サイトにある諫山創さんの「すごく心をかき乱される」というは僕も全く同じことを感じました。感動するとか悲しいとは何か違って、「心をかき乱される」です。

それとは別に自己愛性パーソナリティ障害の妻とそれになりかけの子供達から日々モラハラを受けている僕にとって、「謝罪」シーンがとても印象的だったので記事にしようと思いました。

これほどたくさんの「謝罪」シーンが描かれた映画って他にはないと思います。

なぜ、「謝罪」シーンがモラハラ被害者の僕には印象的なのか?

モラハラ人間、自己愛性パーソナリティ障害者は、決して謝罪をしないからです。

もう一つ、余談ですが、アメリカに住んでいるというのもあります。

アメリカ人って、本当に謝りませんよ。

生涯平均謝罪回数なんて統計がとれるとしたら、アメリカ人は日本人の1/4から1/10だと思いますね。まあ、これは本当に余談です。

 

「聲の形」概要

小学6年生当時、先天性の聴覚障害を持つ硝子を激しくイジメていた将也。因果応報か、その後、周囲から避けられ、浮いた存在となる将也。自殺も視野に入れる将也。高校生となった将也は、自分が所有していた小学生当時に硝子が使っていた筆談用ノートを返そうと、手話を覚え硝子に会いに行く。そこから、硝子と将也、その家族、小学生当時と高校生からの友人を巻き込みならがらの物語が展開して行く。

 

謝罪シーン

最初の謝罪シーン

いじめの過程で、将也が硝子の補聴器をいくつも壊していたことを知った将也の母親が弁償のお金を持って硝子の母親へ謝罪に行きます。将也も連れてきており、謝罪させようとしますが、硝子の母親はその必要はないと制します。

母親に呼ばれて謝罪に来るくらいなら、本人は悪かったなんて思ってないのでしょ?という硝子の母親からの面当てですね。

これが最初の謝罪シーンでした。

 

 映画終盤の大事な謝罪シーン

映画の中での一番の謝罪シーンは、終盤に訪れます。将也が小学校のときに硝子をイジメていたことを硝子に謝罪するシーンです。

映画序盤、手話を覚えて硝子を訪ねている時点で相当な反省と謝罪の気持ちが表れてはいるのですけど、この終盤のシーンまで将也が硝子に謝罪することはありませんでした。

そして、手話を覚えて反省と謝罪の気持ちを表現しているからと言って、謝罪をしなくと良いってことにはなりません。

将也は、きちんと硝子に謝罪をしたのでした。

しかも、これは、自殺をしようとした硝子を助けようとして将也が大けがをした後のことでした。

偉いね、将也。

 

一番印象深かった謝罪シーン

僕にとって一番印象に残った謝罪シーンは、この終盤のクライマックスではありません。

それは、高校生になって現れた将也に、硝子の母親がパシーンと平手打ちを食らわせたときのシーンです。

家出した硝子の妹を家まで送っていた将也は硝子の母親と出くわします。

将也が小学校のころ娘(硝子)をイジメていたことを覚えていた母親は、その将也が妹を連れているこにも気分を害したのか、つかつかと将也へ歩み寄り、パシーンと平手打ち食らわせました。

将也は、うろたえるものの、なぜそうなったのか、自分が硝子をイジメてたことが原因だと理解し、ただ一言「すみませんでした」と謝罪したのです。

このシーンが一番僕にとって、印象的だった理由は、モラハラ人間、自己愛性パーソナリティ障害者だったなら絶対にこの謝罪はないからです。

このシーン、もし、将也がモラハラ人間ならどうしたかは僕には簡単に分かります。

自分がした悪いこと(イジメ)は、速攻で棚上げし、大人が高校生の自分に手をあげたことを責め立てるはずです。

「未成年者に暴力をふるとはなにごとだ。頭おかしんじゃないのか!」なんて言うでしょうね。

彼らは被害者意識が強く、自分の非道徳的な行いはすぐに棚上げするくせに、他人の非道徳的な行いは、ここぞとばかりに責め立てます。

 

そして、将也がモラハラ人間だったら、あり得そうなもう一つのパターン。

家出した硝子の妹を送って行く途中ですから、「誰があんたの娘の面倒を見たと思ってんだ!」などと言ってキレるでしょうね。

モラハラ人間は、他人が自分してくれる親切は当たり前だと言わんばかりに感謝しないくせに、自分が他人にしてあげたことに対しては過大な評価と感謝を求めます。

だから、将也が、一切の言い訳も、弁明もせず、硝子の母親のある意味間違った行いを非難することもなく、ただ「すみませんでした」と謝罪したことに僕は驚き涙してしまいました。

映画を観て頂ければわかりますが、このシーンでボロボロと涙しているのは多分僕くらいでしょうね。 

そう分かってはいるけど、こうやって書いているだけで涙が出てきます。

 

京都アニメーション

この「聲の形」は2016年、京都アニメーションの作品です。

「聲の形」の制作に関わり、火災の被害にあったスタッフの方もいらっしゃるでしょうね。

放火犯の動機ははっきりとしないものの、犯人が京都アニメーションへ応募した小説を評価して貰えなかったことへの逆恨み、アイデアを盗まれたという被害妄想の報道が少しあります。

自分(の書いた小説)への過大な評価の要求と被害者意識の強さから、自己愛性パーソナリティ障害の匂いを感じます。

自分自身も死のうとしているので、境界性パーソナリティー障害の要素も入っているかもしれません。

未だに犯人が謝罪をしたという話も聞きません。

 

この作品誕生の経緯

「聲の形」の原作者は、大今良時さんという方で、最初にこの漫画を描いたときは何と19歳だったそうです。

芸術の世界には、すごい才能を持った人がいます。

すばらしい作品だと思うのですが、何と、最初は掲載すらされなかったのです。

この作品は、第80回週刊少年マガジン新人漫画賞で入選しています。新人賞の副賞として掲載されるという決まりになっていたにも関わらず、聴覚障碍者へのいじめが描かれていることから、掲載されませんでした。

少年向けの漫画というものは、「がんばれば報われる」が大前提です。

この作品は、先天性の聴覚障害を扱っており、がんばっても聴覚障害は克服できないので後ろ向きな作品だと判断されました。

作者の大今さん、とてもショックだったでしょうね。

しかし、このがっかりせざるをえない評価、理不尽な掲載中止にも、へこたれず、腐らず、被害妄想を持つことなく、放火せず、努力を続けられたのだと思います。

少年マガジン側が自分たちの判断が間違いだったと認めます。

先天性の聴覚障害という苦難にもめげず、前向きに生きる人とそれを支える人の姿を描いていると。

そして、マガジンへの掲載、映画化へとつながります。

 

モラハラ人間、自己愛性パーソナリティ障害者は人生で損をしている

 反省と謝罪をする動物って、おそらく、人間だけです。

 この映画を観て謝罪とは、人間だけができる崇高な行為だと思いました。

そして、この謝罪から、とことん逃げ続けるモラハラ人間、自己愛性パーソナリティ障害者。

折角、人間として生まれてきたのに、彼らは人生で損をしていると今まで感じたことのない哀れみを感じました。

 

 謝罪の機会を心待ちに

この映画が謝罪とは人間だけができる崇高な行為だと教えてくれました。

不謹慎な言い方ですが、次に僕自身が心からの謝罪をしなければならない機会が訪れるときが待ち遠しいいというか楽しみだと思えるようになりました。

もちろん、悪いと分かっていることをしたりはしませんよ。

少しでも、マシな人間になろうと生きていく中で、それでも間違いを犯すと思います。

そのときは、心からの謝罪をして人間として成長の機会としたい。

そう思わせてくれる映画でした。

「聲の形」は、英語では、"A Silent Voice"と言います。映画に出てくる「The shape of voice」よりも、名訳ですね。Amazon USA(一番右)のリンク先でTrailer(予告編)が見れます。